2018年5月16日水曜日

レッスン185と今

自分の中で大混乱が起こっている。

夢の中での観念の現れの方がキツくて、むしろ苦手な会社の仕事や日常生活の方が楽に感じるくらい。

2017年7月27日木曜日

あらゆるものすべてについて、大事に大事にとっておくことができないという事実がひしひしと押し寄せた。

うれしいや悲しいといった感情も、物質も、人との関係も。

この世界でそれらが壊れないようになくさないように握りしめていられたとしても、「死」が訪れるときには全部もっていけない。

変化しないことの中にではなく、変化したり握りしめておく必要のないことの中に自由さと安心感があることを知りたい、本当に受け入れたいって思う。

2017年7月17日月曜日

存在の儚さ。

存在意義への不安。

最も分離を感じるであろういつかくるその時を、目の前の人を使って見なくて済むように紛らせている。

でも、根底のその恐怖、そして一体化欲求は、何かの状況や人や出来事が原因では決してない。

そして、そうして自我の錯覚のために人を利用するとき、きっと何も目の前の人のことを見ていないのだと思う。

脈絡のない不安や悲しみや恐怖が一度に押し寄せた。

2017年6月28日水曜日

奇跡講座テキスト編(中央アート出版)
第二章 Ⅰ -5

平安とはあなたの中にある属性である。

それを外に見つけることはできない。

病とは何らかの形の外的探求である。

健康とは内なる平安である。

それにより、あなたは外からの愛の欠如によっても動揺せずにいられるようになり、また、奇跡を受け入れることを通して、他者の中の愛の欠如から生じる状況をも正す能力をもち続けられるようになる。

2017年6月23日金曜日

わからないものをわからないままにしておくこと。

形の上での見え方や表現がどうであれ。

わかりたいとかわかろうとする方へ向かおう向かおうとする自我の流れを祓っていくこと。

それは自由度とくつろぎがある。
(少なくとも葛藤はないだろう。)

2017年6月21日水曜日

レッスン121再び

レッスン121
「赦しが幸せへの鍵である。」

赦そうとしないほかの心の一つひとつがあなたに提供するのは、あなた自身の赦そうとしない心に、自分のその心を赦す方法を教える機会である。

どの心も、あなたを通して地獄から解放されるのを待っており、今ここで、天国を切望してあなたに頼っている。

そうした心は望みを失っているが、あなたがその希望となる。

そしてその心にとって希望となったあなたは、あなた自身の心にとっての希望となる。

赦そうとしない心は、自分が地獄から救われていることを、あなたからの赦しを通して学ばなければならない。

そしてあなたは、救済を教えながら、救済を学ぶだろう。

しかし、あなたの教えることも学ぶことも、どちらもあなたから生じるものではなく、あなたに道を示すために与えられた内なる教師から生じるものである。

(中央アート出版 奇跡講座より)

レッスン121に戻って2日め。

先に進めることよりも、スルーせずに丁寧に向き合うこと。

121-140はそうして進めていきたいとなんとなく思っている。

このレッスンは、一日の中でも、これまでも何度も読んで取り組んできた。

そのため、何度も読んで知っているからわかっている、と文章もレッスンもスルーしそうになる。

でも、そうした思考も、怒りが立て続けの状況も、混沌の事案も、向き合ってレッスンを適用させ、計り知れない部分での選択を変えることで錯覚を取り消していくことだけなのかもしれない。

先日、仕事で怒り狂った人と電話しながら、どのような感情も思考も、自我の存在証明と主張したがっているにすぎない、と目から鱗が落ちた。

重苦しく考えることも、赦しを何か特別なものや立ち向かうものとして捉えることも必要なくって、気づいて見抜きつづけることと、誤りの訂正を受けいれる心だけが必要なのかもしれない🐤🐤🐤

2017年6月16日金曜日

レッスン128

レッスン128
「私が見ているこの世界には私が望むものは何もありません。」

3.
あなたがこの世界に救済を知覚するときに自分の心に巻きつけている鎖から、今日こそ逃れなさい。

というのも、あなたは自分が価値を置いているものを、自分で知覚している自分自身の一部と見なすからである。

あなたが自分の目に映る自分の価値を高めようとして追求するものはすべて、あなたをさらに制限し、あなたの真の価値をあなた自身から隠し、あなたの自己についての真の自覚へと通ずる扉に、かんぬきをもう一本加えるだけである。

(奇跡講座テキスト編 中央アート出版より)


レッスン128, 129, 130は、価値あるもの、本当に望んでいるものを、この世界はそもそも与えてくれないという前提を受け入れることがスタートのように思える。

このところ、仕事で厄介だと思えるお客さんや事案が続いている。

延々と怒りつづける人、こだわりがある人、混沌。

それらとひとつずつ対峙し、レッスンを適用させていくと、わたしが守りたいのは、わたしの怒りや感情、そして、そもそも「自分」という存在証明を示していたいという欲求だということが見えてきてしまう。

認める瞬間はなんとも言いがたい抵抗があるが、認めて取り消しを依頼していくと、目に見える形としても、相手の怒りも事案の混沌もほどけていくことがある。

目の前の結果はきっとおまけのようなもので重要ではないけれど、それを見ることで、根底の分離というのは誰しも同じであり、恐れており、兄弟であるということを忘れないでいるきっかけになる。