奇跡講座テキスト編(中央アート出版)
第二章 Ⅰ -5
平安とはあなたの中にある属性である。
それを外に見つけることはできない。
病とは何らかの形の外的探求である。
健康とは内なる平安である。
それにより、あなたは外からの愛の欠如によっても動揺せずにいられるようになり、また、奇跡を受け入れることを通して、他者の中の愛の欠如から生じる状況をも正す能力をもち続けられるようになる。
レッスン121
「赦しが幸せへの鍵である。」
赦そうとしないほかの心の一つひとつがあなたに提供するのは、あなた自身の赦そうとしない心に、自分のその心を赦す方法を教える機会である。
どの心も、あなたを通して地獄から解放されるのを待っており、今ここで、天国を切望してあなたに頼っている。
そうした心は望みを失っているが、あなたがその希望となる。
そしてその心にとって希望となったあなたは、あなた自身の心にとっての希望となる。
赦そうとしない心は、自分が地獄から救われていることを、あなたからの赦しを通して学ばなければならない。
そしてあなたは、救済を教えながら、救済を学ぶだろう。
しかし、あなたの教えることも学ぶことも、どちらもあなたから生じるものではなく、あなたに道を示すために与えられた内なる教師から生じるものである。
(中央アート出版 奇跡講座より)
レッスン121に戻って2日め。
先に進めることよりも、スルーせずに丁寧に向き合うこと。
121-140はそうして進めていきたいとなんとなく思っている。
このレッスンは、一日の中でも、これまでも何度も読んで取り組んできた。
そのため、何度も読んで知っているからわかっている、と文章もレッスンもスルーしそうになる。
でも、そうした思考も、怒りが立て続けの状況も、混沌の事案も、向き合ってレッスンを適用させ、計り知れない部分での選択を変えることで錯覚を取り消していくことだけなのかもしれない。
先日、仕事で怒り狂った人と電話しながら、どのような感情も思考も、自我の存在証明と主張したがっているにすぎない、と目から鱗が落ちた。
重苦しく考えることも、赦しを何か特別なものや立ち向かうものとして捉えることも必要なくって、気づいて見抜きつづけることと、誤りの訂正を受けいれる心だけが必要なのかもしれない🐤🐤🐤
レッスン128
「私が見ているこの世界には私が望むものは何もありません。」
3.
あなたがこの世界に救済を知覚するときに自分の心に巻きつけている鎖から、今日こそ逃れなさい。
というのも、あなたは自分が価値を置いているものを、自分で知覚している自分自身の一部と見なすからである。
あなたが自分の目に映る自分の価値を高めようとして追求するものはすべて、あなたをさらに制限し、あなたの真の価値をあなた自身から隠し、あなたの自己についての真の自覚へと通ずる扉に、かんぬきをもう一本加えるだけである。
(奇跡講座テキスト編 中央アート出版より)
☆
レッスン128, 129, 130は、価値あるもの、本当に望んでいるものを、この世界はそもそも与えてくれないという前提を受け入れることがスタートのように思える。
このところ、仕事で厄介だと思えるお客さんや事案が続いている。
延々と怒りつづける人、こだわりがある人、混沌。
それらとひとつずつ対峙し、レッスンを適用させていくと、わたしが守りたいのは、わたしの怒りや感情、そして、そもそも「自分」という存在証明を示していたいという欲求だということが見えてきてしまう。
認める瞬間はなんとも言いがたい抵抗があるが、認めて取り消しを依頼していくと、目に見える形としても、相手の怒りも事案の混沌もほどけていくことがある。
目の前の結果はきっとおまけのようなもので重要ではないけれど、それを見ることで、根底の分離というのは誰しも同じであり、恐れており、兄弟であるということを忘れないでいるきっかけになる。
レッスン124
「私が神とひとつであることを思い出せますように。」
1ヶ月ほど前にこのレッスンをやったときも、母と似ていて苦手で怒りがわいてくる人と一日を共に過ごした。
偶然にも、母と日帰り旅行の今日も、再びこのレッスン。
再びレッスン121から丁寧に取り組む中で、過去を手放すことへの自分の恐れを見つめたとき、母の中にも同じものを見て怒っていること、同じ牢獄の中にいる兄弟に他ならないことを感じた。
そのときから自分の中の何かが止まったのかもしれない。
今年はどうしても紫陽花が見たくて、母の誕生日プレゼントととして、急遽誘って母の知らない土地を一緒に訪れた。
普段なら、色々なことに怒りと苛立ちを感じるか、我慢して私が不機嫌になるか、母が怒りだすかだけれど、今日はこれまでで初めて本当に一度もそうしたことを感じることなく、純粋に瞬間瞬間がただただ楽しかったり夢中だったり。
そんなときにはまったく無理がないから、疲れないし、エネルギーがわいてきたりで、帰宅後、久しぶりに掃除までできた。
トイレやお風呂を隅々まで掃除したら、何か爆発したように泣けてきて、母への葛藤の代わりに、今度は死や病という形で物理的肉体的に分離がリアリティーを持っていることがただただ悲しくなった。
どんな思いにしろ、その根本的な原因は「神からの分離」で、そのドラマが何度でも繰り返される。
今日はレッスンの適用と、「原因についてのコース」の再読がまた役にたった。
形に惑わされることなく、赦しとともに過ごしていこうと思う。
レッスン121
「赦しは幸せへの鍵である。」
レッスン122
「赦しは、私が望むものすべてを与えてくれます。」
ここ数日は、121と122の「赦し」のレッスンにとどまっていた。
ふとでてきたキーワードは「過去」。
知覚は常にそこにないもの、幻想を見続けている。
過去という錯覚を取り消し、新たな見方を選択することにはちょっと勇気がいる。
それは可能性の広がりでもあるのだけれど、過去というデータベースを真っ白にしてしまうことに自我は恐れを抱く。
そして、さびしさや悲しさも伴う。
母は、究極な形でこの過去への執着と今にとどまることへの恐れを見せつづけてくれている。
すでに忘れてしまったり、今はまったく違う見方となっていて思い出せないような過去の言動をもちだし、私が今感じていることには目を向けてもらえない。
決して期待はしていないけれども、それでも、私の話を一瞬たりとも聞いてもらえないことにはやっぱり悲しみを感じる。
ただ、連日の赦しについてのレッスンの中で、過去から見ることをやめる選択に伴う自分の中の恐れを認めてみたとき、根底には同じ恐れがあるんだと受け入れる瞬間もあり、同時に怒りがほどけるのも感じた。