2017年2月23日木曜日

レッスン54

レッスン54(復習レッスンⅠ)

1. 私には中立的な思いはありません。

2. 私には中立的なものは見えません。

3. 私は私の見るという行為の結果を体験することにおいて一人ではありません。

4. 私は私の思いの結果を体験することにおいて一人ではありません。

5. 私は観ることを決意しています。

ー今日のことー
どうしても開きたい、自分の中の女性性の問題(だと思っている幻想)を見つめたい、どう在ればよいかはわからないけれども一瞬一瞬の生命の息吹きを本当に感じてみたい。

そんな思いと共に、レッスン中の時間がどこか変わった。

復習レッスンはこれまで何度やっても苦手と感じるが、今日は広がったような、気づいたら涙がでていたり、そんな感じだ。

ひたすらにやりきりたい。

レッスン53

レッスン53(復習レッスンⅠ)

1. 私の意味のない思いは、意味のない世界を見せてくれています。

2. 私の心が動揺しているのは、私が意味のない世界を見ているからです。

3. 意味のない世界は怖れを生み出します。

4. 「神」は意味のない世界を創造しませんでした。

5. 私の思いは、私が作り出したイメージです。

ー今日のことー
これほどまでに一瞬一瞬の生命を感じてみたい、心の底から自分の中の女性性と向き合いたいと思えたことはない。

毎瞬を生命のままに、身体もごまかしや頑張りでなく本来の姿のままに、内側から綺麗にしたい。

今は身体も内面から溢れだすものもどちらもまったく自信がなく、自我の好きなままにさせる習慣を選択し続けている。

このきっかけを通して、自我や思考というそこにないものにはもう力を与えないという選択を本当にしていく。

そんな機会が舞い降りてきたって嬉しく思う。

2017年2月20日月曜日

レッスン51

レッスン51(復習レッスンⅠ)

1. 私が見ているものには何の意味もありません。

2. 私が見ているものに、それが私に対して持っている意味のすべてを私は与えています。

3. 私は私が見ているものを何も理解していません。

4. これらの思いには何の意味もありません。

5. 私の心の動揺は、私が考える理由によるものでは決してありません。

ー今日のことー
この上ない孤独、何をしていてもつきまとう不快感、葛藤と執着。

根底にあるのは、「分離」なのだろう。

言葉の上でしか想像がつかないから、あくまで「だろう」だ。

様々な本を読み、答えを持っていそうな人たちに繰り返し尋ね、逆に気を紛らせることもやってはみた。

でも、これに対する答えはやはり得られず、解決策も得られず。
(本も人も可能な限り、最大限出し惜しみなく差し出してくれるけれど、受け取れない。)

それは、今すでにここにあるものだ、つかんだり、理解したり、個人的なものではないということが何度も何度も伝えられる。

とうとう、自分が求めているものは、おそらく奇跡のコースというツールを使ってひたすら問いかけるしかないという降参と(自我による)敗北感にぶち当たった。

2017年2月19日日曜日

レッスン49

レッスン49
『神の声は一日中、私に語りかけます。』

自分が奇跡のコースと向き合いたくないと思っていること、意味がないとどこかで思っていること、自分の判断とやり方を優先したいと思っていること、それらを自分の選択として認めることには大きな勇気がいる。

悔しさや怒りや孤独や様々な感情がわきおこる。

認めれば、初めて再びスタートに立つことができ、ずっと楽にもなる。

今日のレッスンと共に、『この宇宙は夢なんだ』は、読みながら(正確には、初めあまりにも頭に入ってこなさすぎて)、そうした問いかけと自分自身で行っている心の選択をどうするか、見つめるきっかけを与えてくれた。

2017年2月13日月曜日

コースと非二元のこと

「理解」とは「誰か」に訪れるものでもなく、「誰か」が理解するものではないもののようだ。

実相やそこにあるものは決して言葉にはできないもの、らしい。

それでもノン・デュアリティのスピーカーたちは、表現には限界があるけれど、指し示してくれている。

奇跡のコースでキリストが指し示しているものも同じもの。

漠然とした理解として、なんとなく気づきが起こり始めているようだ。

テキストが表しているものが昨日とはまったく違うものとして見えていて、キリストの壮大な比喩が垣間見えた気がして、思わず微笑みがこぼれた。

(キーワードは「分離」と「それに伴う違和感」)

2017年2月12日日曜日

レッスン43

レッスン43
『神は私の源です。私は神から離れて見ることはできません。』

今日はレッスンでも、メールでも、言葉としても、「行為者はいない」「分離はそもそもない」という概念に繰り返し触れる一日だった。

「二番はない(行為者はいない)」

「知覚するという行為には、必ず、知覚する人と知覚される人・ものが必要です。わたしとあなたという別々の存在が必要なのです。」

そして、今日のレッスンもまさしく同じことを伝えているように感じている。

2017年2月11日土曜日

レッスン42

レッスン42
『神が私の強さです。心眼(ヴィジョン)は神の贈り物です。』

他者を自分の自我を満たす道具として使いたいのか?

他者を自分の中の比較と競争と劣等感を証明する道具として使いたいのか?

自分では本当にもうどうしようもないとき、心眼で見せてほしいと祈るしかなくなる。

ちょっとした思い(レッスン以外のこと)

仕事中に突然、どうしても参加してみたい!という駆け引きのない、それでもとても強い思いがわきあがり、退けようとしたけれど、何度も何度もやってきた。

そのあとは、本当に驚くほどすべてが整ってしまい、間に合って参加できた。

今も自分がなぜここにいるのか、よくわからない不思議な気持ちだ。

直前でも参加できたこと、支払いにまわせるお金があったこと、今日一日をそのように過ごせたことに、(珍しく)心から感謝の気持ちがわきあがっている。

何もしないで(ごまかさないで)いる時間をこんなにも持つことは日常ではなかなかできない。

苦痛や抵抗もあった。

キーワードは「一体化しないこと」と「逃げないこと」。

いつ開くのかも、解放が何を指すのかもわからないけれど、きっと無駄なことはないのだと思う。

「ずっとノンデュアリティに触れ続けていたわけではないし、何年も触れていなくて、忘れかけた頃だったのよ。時間や理解とは何も関係ないの。」と声をかけられた。

これまでのパターンの選択をやめたい、作り出している分離や苦しみという錯覚を本気で終わらせると心を再び定め始められた今、できることは全部やり尽くしたいと思う。

努力とか無理をして頑張るということではなく。

今、とても孤独に感じるし、見たくもないし、しんどいけれど、それでもやるのだ。

2017年2月6日月曜日

LOVE is the ANSWER

思わず微笑んでしまうようなかわいらしいイラスト。

奇跡のコースと共に歩もうとしながらも、日常に埋没し、自他への攻撃がやまず、人としても最低なところに転がり落ちつつある中、それでもそっと心を懐柔してくれる一冊を発見。

pre ACIM

レッスン37

レッスン37
『私の聖性がこの世界を祝福します。』

そして、それは、世界に向かって説教をしたり、何かを告げたりすることによってではなく、自らの聖性の中ではすべてが自分とともに祝福されているという、あなたの静かな認識を通してなされる。
(中央アート出版より抜粋)