「理解」とは「誰か」に訪れるものでもなく、「誰か」が理解するものではないもののようだ。
実相やそこにあるものは決して言葉にはできないもの、らしい。
それでもノン・デュアリティのスピーカーたちは、表現には限界があるけれど、指し示してくれている。
奇跡のコースでキリストが指し示しているものも同じもの。
漠然とした理解として、なんとなく気づきが起こり始めているようだ。
テキストが表しているものが昨日とはまったく違うものとして見えていて、キリストの壮大な比喩が垣間見えた気がして、思わず微笑みがこぼれた。
(キーワードは「分離」と「それに伴う違和感」)
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