2017年5月29日月曜日

「原因についてのコース」

このところ、とても励ましになっているのは「原因についてのコース(JACIM)」。

自分の中のコースへの幻想と無意識に抱いている期待を一掃させてくれるから。

本当に迷いなく。

言葉でも繰り返し聞き、何度も立ち止まってきたことだけれど、何度立ち止まってもよいのだ。

改めて音源やこの冊子を読むと、このタイミングでテキストを集中的に精読しよう、必要最低限の理論をもう一度、自分の判断なしに理解してみよう、そんな気持ちがむくむくわいてきた。

レッスン120番台以降は、抵抗が大きいか、あるいは日中スルーしようと思えば簡単にできてしまう。

そして、復習レッスンも含め、判断を取り下げないと、レッスンのアイデアが心に留めておきにくい。

丁寧に読み、丁寧に自分の錯覚に気づき、丁寧に取り下げたい。

そんな勇気をもらっている。

2017年5月28日日曜日

最近の壁

レッスン120番台から徐々に抵抗が現れ、130番台に入ると更に抵抗は大きくなり、復習レッスンに入るとどうにもならないほど抵抗であふれた。

あまりの(思考の)忙しさと仕事の責任と量の負担とに、目に見える形で肉体に次々と不調が現れ、毎日人から顔色の悪さを指摘されるのにどうにも取り繕ったり頑張れない日々がつづいている。

今日はなんとか力をふりしぼって森林を歩いた。

あまりにも美しい青空と葉っぱのコントラスト。

自分や他者の生死や不調や肉体のこと、仕事でもたらされている状況や役割。

それらはこの自然界と同じようによいも悪いもなくただ起こっていることなのに、流れに逆らおう、逆らいたい、避けたい、何か変えられることがあるのなら変えたい、そんな不自然なことをしようとしているから、それらが強化されていくのかもしれない。

そうしたアイデアがふと何かの拍子にもたらされて一瞬気づきと共に立ち止まるとき、強化されていた錯覚が消えることがある。

レッスン120番台以降は特にテキストの精読が役立ってくると思うし、もう一度丁寧に丁寧に取り組んでみたくなった。

2017年5月24日水曜日

『キリストの御手』

原因不明の身体の不調。

舌が痛くて食べれなかったり、食欲が消えたり。

心臓が止まるかと思う不整脈や全身の痒みで眠れなかったり。

とにかく午前中が辛く、会社に行くのも仕事も辛い。

昨日は久しぶりにオイルや湿布を使ったら、びっくりするくらいよく眠れ、痒みで起きることもなくで驚いた。

仕事への支障や目の前の不調にどうしても気をとられそうになる。

今のレッスンの中心テーマは「私の心の中にあるのは、私が神と共に考える思いだけです」。

原因はひとつ。

たまたま再び読んでいる「原因についてのコース」も参考になる。

ひとりで色々と抱え込みすぎるのは辛い。

2017年5月17日水曜日

レッスン136

今日はレッスン136。

昨日も今日も、文章がまったく頭に入ってこない。

小学生のように一文ごとに繰り返し読んでようやく頭に入ってくるということの繰り返し。

常に決断は自分がしており、外側の不可抗力で自分が脅かされるわけではない。

15分のレッスンの中で、真理への数々の防御によって、私は自分も他者も肉体に留めるという選択をしているということを改めて気づいた。

そして、このレッスンのタイミングで久しぶりに長引く体調不良。

やりたくないことを引き受けるしかなくて無理矢理に頑張り、更にそれを誰も知らなかったり当然だとされて更なる仕事量・・・。

たぶん、そこに対してしんどさや理不尽だというものから怒りに変わったのか、体調もよくないけれど、それ以上に仕事をするエネルギーがでてこない。

でも、いつだって原因はひとつ。

仕事上の混沌とした次々の問題にはひとつずつ原因に立ち返り、結果としてするするとほどけることが繰り返されているけれど、こうした身体に現れるものへはまだ例外を作りたくてよくわからないと思いたがっている。

病気も目の前の混沌も同じだけれど、自他に対し、やっぱり肉体だという信念が強いからこんなにも苦しいし、思考が止まらないし、赦しが吹っ飛んでしまうのかもしれない。

2017年5月16日火曜日

今日はレッスン135。

ここ最近のレッスンは、非常に大事だってことは本当によくわかっている。

でも、やりたくないなーという気持ちが強くて、毎日それをよいしょっと退けることに苦戦している。

ある人の禁煙の話を聞いて、私も同じようにゆるい断糖と軽い運動をつづけることにした。

というよりも、なんとなく自然に始まった。

食べたいという衝動は起こりつづけ、運動に行きたくないという衝動は起こりつづける。

ただその衝動を眺め、時にはやると決めたことを淡々とやるために退けてやりつづける。

これは今のレッスンへの取り組みにも同じだし、心でも身体でも筋トレのやり方は同じだ。

さぁ、がんばろう・・・。

2017年5月7日日曜日

レッスン127

レッスン127
「神の愛のほかに愛はない。」

真の自己を知りたいなら、自分の一部を自分の愛の外に置き去りにすることはできないのだから、私たちは彼らのことを一日中何度も思い出す。

少なくとも一時間に三回、あなたとともに旅をしている人、あなたが学ぶべきことと同じことを学ぶためにやってきた兄弟のことを思う。

そして彼のことが思い浮かんだら、あなたの真の自己からこのメッセージを彼に与えよう。

兄弟であるあなたと共有したい神の愛で、私はあなたを祝福します。

あなたの愛であり、私の愛であり、皆の愛である神の愛のほかに愛はない、というこのレッスンを学びたいからです。

(奇跡講座ワークブック編 中央アート出版より抜粋)


「兄弟」という概念。

ここしばらく、「兄弟」ということを考えざるをえない出来事や内側の葛藤、痛みや悲しみや怒りや劣等感がつづいている。

ようやく少しずつ少しずつ、それらのパターンをもう本当にやめようと受け入れ始めることが起こっている。

こうだという決めつけからしか見えなかったものが違って見え、それが見えると同時に、物理的な関係性としては離れる気がし、でも、どうやら距離や肉体的ふれあいは関係なく、自分の心の内側にその種やひっかかりがある限り、その人を兄弟と見て、自分の中の赦しという機能を使いつづけることになるのだと感じる。

2017年5月6日土曜日

レッスン126

レッスン126
「私が与えるものはすべて私に与えられます。」


今朝、15分の練習をどうしても行いたくないという抵抗が起こっていた。

思わず他のこと(もう一度眠る、トイレ、ごはん、などなど)を優先させそうになりながら、なんとか座ってレッスンに集中。

レッスンをしながら、自分の思考を明け渡すほんの少しの勇気をだすことだ!、そんなことを思った。

抵抗は、自分が考えることを優先させたいのにレッスンを優先しなければいけないという葛藤だったのかもしれない。

2017年5月5日金曜日

真のつながりへの切望

目の前の相手の理解の範疇を超えた行動や苛立たされる言動に、何度もキレそうになった。

なんとか冷静になろうとするなかで、「この人がこの言動をしなければならないのはどうしてだろう、何を恐れているのか」という視点が起こったとき、ひとまず自分の内側に意識を向けやすくなり、助けとなると感じている。

それでも、自分が被害者ではなく、上下もなく、自分自身も同じように恐れているということを「受け入れ」始めるのには時間を要する。

言葉を交わすコミュニケーションが成立しない形、逆に、言葉を交わしていてもその背後に自我の恐れがくっきり見えてつながりなどないように感じる形。

そのあまりの空しさに、丸一日以上、生きることを放棄し、身体の機能としても欲や味覚や循環もやめてしまったようだ。

目の前の相手が原因ではないが、これほどまで、真のつながりやコミュニケーションというものを切望し、それらの難しさに絶望し、きっと何千回、何万回と絶望して諦めるということを繰り返してきたのだろうとなんとなく思う。

少しずつ停止した状態からぬけだしながら、今回はきっと諦めない、そんな思いがわきあがる。