あらゆるものすべてについて、大事に大事にとっておくことができないという事実がひしひしと押し寄せた。
うれしいや悲しいといった感情も、物質も、人との関係も。
この世界でそれらが壊れないようになくさないように握りしめていられたとしても、「死」が訪れるときには全部もっていけない。
変化しないことの中にではなく、変化したり握りしめておく必要のないことの中に自由さと安心感があることを知りたい、本当に受け入れたいって思う。
レッスン121
「赦しが幸せへの鍵である。」
赦そうとしないほかの心の一つひとつがあなたに提供するのは、あなた自身の赦そうとしない心に、自分のその心を赦す方法を教える機会である。
どの心も、あなたを通して地獄から解放されるのを待っており、今ここで、天国を切望してあなたに頼っている。
そうした心は望みを失っているが、あなたがその希望となる。
そしてその心にとって希望となったあなたは、あなた自身の心にとっての希望となる。
赦そうとしない心は、自分が地獄から救われていることを、あなたからの赦しを通して学ばなければならない。
そしてあなたは、救済を教えながら、救済を学ぶだろう。
しかし、あなたの教えることも学ぶことも、どちらもあなたから生じるものではなく、あなたに道を示すために与えられた内なる教師から生じるものである。
(中央アート出版 奇跡講座より)
レッスン121に戻って2日め。
先に進めることよりも、スルーせずに丁寧に向き合うこと。
121-140はそうして進めていきたいとなんとなく思っている。
このレッスンは、一日の中でも、これまでも何度も読んで取り組んできた。
そのため、何度も読んで知っているからわかっている、と文章もレッスンもスルーしそうになる。
でも、そうした思考も、怒りが立て続けの状況も、混沌の事案も、向き合ってレッスンを適用させ、計り知れない部分での選択を変えることで錯覚を取り消していくことだけなのかもしれない。
先日、仕事で怒り狂った人と電話しながら、どのような感情も思考も、自我の存在証明と主張したがっているにすぎない、と目から鱗が落ちた。
重苦しく考えることも、赦しを何か特別なものや立ち向かうものとして捉えることも必要なくって、気づいて見抜きつづけることと、誤りの訂正を受けいれる心だけが必要なのかもしれない🐤🐤🐤
レッスン128
「私が見ているこの世界には私が望むものは何もありません。」
3.
あなたがこの世界に救済を知覚するときに自分の心に巻きつけている鎖から、今日こそ逃れなさい。
というのも、あなたは自分が価値を置いているものを、自分で知覚している自分自身の一部と見なすからである。
あなたが自分の目に映る自分の価値を高めようとして追求するものはすべて、あなたをさらに制限し、あなたの真の価値をあなた自身から隠し、あなたの自己についての真の自覚へと通ずる扉に、かんぬきをもう一本加えるだけである。
(奇跡講座テキスト編 中央アート出版より)
☆
レッスン128, 129, 130は、価値あるもの、本当に望んでいるものを、この世界はそもそも与えてくれないという前提を受け入れることがスタートのように思える。
このところ、仕事で厄介だと思えるお客さんや事案が続いている。
延々と怒りつづける人、こだわりがある人、混沌。
それらとひとつずつ対峙し、レッスンを適用させていくと、わたしが守りたいのは、わたしの怒りや感情、そして、そもそも「自分」という存在証明を示していたいという欲求だということが見えてきてしまう。
認める瞬間はなんとも言いがたい抵抗があるが、認めて取り消しを依頼していくと、目に見える形としても、相手の怒りも事案の混沌もほどけていくことがある。
目の前の結果はきっとおまけのようなもので重要ではないけれど、それを見ることで、根底の分離というのは誰しも同じであり、恐れており、兄弟であるということを忘れないでいるきっかけになる。
レッスン124
「私が神とひとつであることを思い出せますように。」
1ヶ月ほど前にこのレッスンをやったときも、母と似ていて苦手で怒りがわいてくる人と一日を共に過ごした。
偶然にも、母と日帰り旅行の今日も、再びこのレッスン。
再びレッスン121から丁寧に取り組む中で、過去を手放すことへの自分の恐れを見つめたとき、母の中にも同じものを見て怒っていること、同じ牢獄の中にいる兄弟に他ならないことを感じた。
そのときから自分の中の何かが止まったのかもしれない。
今年はどうしても紫陽花が見たくて、母の誕生日プレゼントととして、急遽誘って母の知らない土地を一緒に訪れた。
普段なら、色々なことに怒りと苛立ちを感じるか、我慢して私が不機嫌になるか、母が怒りだすかだけれど、今日はこれまでで初めて本当に一度もそうしたことを感じることなく、純粋に瞬間瞬間がただただ楽しかったり夢中だったり。
そんなときにはまったく無理がないから、疲れないし、エネルギーがわいてきたりで、帰宅後、久しぶりに掃除までできた。
トイレやお風呂を隅々まで掃除したら、何か爆発したように泣けてきて、母への葛藤の代わりに、今度は死や病という形で物理的肉体的に分離がリアリティーを持っていることがただただ悲しくなった。
どんな思いにしろ、その根本的な原因は「神からの分離」で、そのドラマが何度でも繰り返される。
今日はレッスンの適用と、「原因についてのコース」の再読がまた役にたった。
形に惑わされることなく、赦しとともに過ごしていこうと思う。
レッスン121
「赦しは幸せへの鍵である。」
レッスン122
「赦しは、私が望むものすべてを与えてくれます。」
ここ数日は、121と122の「赦し」のレッスンにとどまっていた。
ふとでてきたキーワードは「過去」。
知覚は常にそこにないもの、幻想を見続けている。
過去という錯覚を取り消し、新たな見方を選択することにはちょっと勇気がいる。
それは可能性の広がりでもあるのだけれど、過去というデータベースを真っ白にしてしまうことに自我は恐れを抱く。
そして、さびしさや悲しさも伴う。
母は、究極な形でこの過去への執着と今にとどまることへの恐れを見せつづけてくれている。
すでに忘れてしまったり、今はまったく違う見方となっていて思い出せないような過去の言動をもちだし、私が今感じていることには目を向けてもらえない。
決して期待はしていないけれども、それでも、私の話を一瞬たりとも聞いてもらえないことにはやっぱり悲しみを感じる。
ただ、連日の赦しについてのレッスンの中で、過去から見ることをやめる選択に伴う自分の中の恐れを認めてみたとき、根底には同じ恐れがあるんだと受け入れる瞬間もあり、同時に怒りがほどけるのも感じた。
このところ、とても励ましになっているのは「原因についてのコース(JACIM)」。
自分の中のコースへの幻想と無意識に抱いている期待を一掃させてくれるから。
本当に迷いなく。
言葉でも繰り返し聞き、何度も立ち止まってきたことだけれど、何度立ち止まってもよいのだ。
改めて音源やこの冊子を読むと、このタイミングでテキストを集中的に精読しよう、必要最低限の理論をもう一度、自分の判断なしに理解してみよう、そんな気持ちがむくむくわいてきた。
レッスン120番台以降は、抵抗が大きいか、あるいは日中スルーしようと思えば簡単にできてしまう。
そして、復習レッスンも含め、判断を取り下げないと、レッスンのアイデアが心に留めておきにくい。
丁寧に読み、丁寧に自分の錯覚に気づき、丁寧に取り下げたい。
そんな勇気をもらっている。
レッスン120番台から徐々に抵抗が現れ、130番台に入ると更に抵抗は大きくなり、復習レッスンに入るとどうにもならないほど抵抗であふれた。
あまりの(思考の)忙しさと仕事の責任と量の負担とに、目に見える形で肉体に次々と不調が現れ、毎日人から顔色の悪さを指摘されるのにどうにも取り繕ったり頑張れない日々がつづいている。
今日はなんとか力をふりしぼって森林を歩いた。
あまりにも美しい青空と葉っぱのコントラスト。
自分や他者の生死や不調や肉体のこと、仕事でもたらされている状況や役割。
それらはこの自然界と同じようによいも悪いもなくただ起こっていることなのに、流れに逆らおう、逆らいたい、避けたい、何か変えられることがあるのなら変えたい、そんな不自然なことをしようとしているから、それらが強化されていくのかもしれない。
そうしたアイデアがふと何かの拍子にもたらされて一瞬気づきと共に立ち止まるとき、強化されていた錯覚が消えることがある。
レッスン120番台以降は特にテキストの精読が役立ってくると思うし、もう一度丁寧に丁寧に取り組んでみたくなった。
真の自己を知りたいなら、自分の一部を自分の愛の外に置き去りにすることはできないのだから、私たちは彼らのことを一日中何度も思い出す。
少なくとも一時間に三回、あなたとともに旅をしている人、あなたが学ぶべきことと同じことを学ぶためにやってきた兄弟のことを思う。
そして彼のことが思い浮かんだら、あなたの真の自己からこのメッセージを彼に与えよう。
兄弟であるあなたと共有したい神の愛で、私はあなたを祝福します。
あなたの愛であり、私の愛であり、皆の愛である神の愛のほかに愛はない、というこのレッスンを学びたいからです。
(奇跡講座ワークブック編 中央アート出版より抜粋)
☆
「兄弟」という概念。
ここしばらく、「兄弟」ということを考えざるをえない出来事や内側の葛藤、痛みや悲しみや怒りや劣等感がつづいている。
ようやく少しずつ少しずつ、それらのパターンをもう本当にやめようと受け入れ始めることが起こっている。
こうだという決めつけからしか見えなかったものが違って見え、それが見えると同時に、物理的な関係性としては離れる気がし、でも、どうやら距離や肉体的ふれあいは関係なく、自分の心の内側にその種やひっかかりがある限り、その人を兄弟と見て、自分の中の赦しという機能を使いつづけることになるのだと感じる。
レッスン126
「私が与えるものはすべて私に与えられます。」
☆
今朝、15分の練習をどうしても行いたくないという抵抗が起こっていた。
思わず他のこと(もう一度眠る、トイレ、ごはん、などなど)を優先させそうになりながら、なんとか座ってレッスンに集中。
レッスンをしながら、自分の思考を明け渡すほんの少しの勇気をだすことだ!、そんなことを思った。
抵抗は、自分が考えることを優先させたいのにレッスンを優先しなければいけないという葛藤だったのかもしれない。
目の前の相手の理解の範疇を超えた行動や苛立たされる言動に、何度もキレそうになった。
なんとか冷静になろうとするなかで、「この人がこの言動をしなければならないのはどうしてだろう、何を恐れているのか」という視点が起こったとき、ひとまず自分の内側に意識を向けやすくなり、助けとなると感じている。
それでも、自分が被害者ではなく、上下もなく、自分自身も同じように恐れているということを「受け入れ」始めるのには時間を要する。
言葉を交わすコミュニケーションが成立しない形、逆に、言葉を交わしていてもその背後に自我の恐れがくっきり見えてつながりなどないように感じる形。
そのあまりの空しさに、丸一日以上、生きることを放棄し、身体の機能としても欲や味覚や循環もやめてしまったようだ。
目の前の相手が原因ではないが、これほどまで、真のつながりやコミュニケーションというものを切望し、それらの難しさに絶望し、きっと何千回、何万回と絶望して諦めるということを繰り返してきたのだろうとなんとなく思う。
少しずつ停止した状態からぬけだしながら、今回はきっと諦めない、そんな思いがわきあがる。
復習Ⅲ-レッスン116
1. 神の意志が私に望むのは完全な幸せである。
2. 私に望む神の意志を、私も共有している。
☆
今回の復習は、毎時きっかりとその半時間後。
それを繰り返してから、あなたの心を少しの間、静かな平安のなかで休息させる。
その後は日常の活動に戻るが、その概念を念頭に置いたままでいるようにし、それが一日中あなたが平安を保つ助けとなるようにする。
復習Ⅲ 序 より(中央アート出版)
今朝は序文を読みながら、半時間おきにただレッスンを繰り返すことに意味があるのではなく、心を休息させ、目の前の仕事をしながらもその休息を拡張させているんだ!と思った。
今日は、「罪が存在していないこと」「苦しみはなく、苦しみの見返りによって手にはいるものはないこと」「幸せだけが神の意志であること」を心に留めながら過ごす一日としよう。
レッスン93
「光と喜びとやすらぎが、私の中に宿っています。」
光と喜びとやすらぎが、私の中に宿っています。
私の無罪性は神によって保証されています。
☆今日のこと☆
なかなかにハードに感じる新年度。
職場状況や人間関係が大幅に変わり、不満やしんどさやもう無理!であふれかえる。
今日はどちらかと言えば、それらに気づかぬうちに抑え込みすぎて、頭痛や目眩が起こっている。
目の前の状況や人間関係に対し、赦しやレッスンやキリストの言葉を本当に受け入れることに時間がかかってしまうことだってある。
でも、根底にある問題は「分離」だけであること、それ以外の問題は一切ないことを思い出せさえすれば、あとは大丈夫(なはずだ←今日はちょっと自信がないけど)。
形がどうであれ、収縮や防御でなく、くつろぎが訪れること、一度も離れたことのないそれの邪魔立てをしないこと。
奇跡講座 テキスト編(中央アート出版)
第5章Ⅲより抜粋
誤った声に誘惑されたときには、私に呼びかけなさい。
そして、私の決断を共有し強化することで癒すことができるということを、思い出させてほしいと求めなさい。
☆今日のこと☆
独立するまでは、実家でかなり多くの時間と密度を母と共に過ごしてきた。
それにも関わらず、自我の要求や取り引きなしに、本当に心かよう瞬間というものを過ごしたことは、もしかするとほとんどないのかもしれない。
コースや赦しや聖性などを心の中において母と会話するとき、母がしがみついて決して離さない、母の中の強烈な「咎め」と「不満」にどうしても気づいてしまう。
同時に、しばしば、母の求める要求を満たせない自分に罪悪感がわき起こること、本当は自分は悪くはないのに苦虫を噛み潰したような気持ちになること、母の怒りを緩和させるために要求に従ってしまうことというのが起こってくる。
今夜は特にそれらが強烈で、怒りや恨みや咎めというのは本当に本当に牢獄で不幸だと感じた。
そして、私の中にどのような自我のダイナミズムが起ころうとも、それらは真の姿ではないし、持つ必要のない罪悪感だ。
私はどれほど母や自分の自我が咎めや罪悪感を主張しようとも、もうそうした分離のストーリーで絆を築いていくことはもう決してしない。
今日、耳にとまった箇所。
テキスト11章8より
T-11.VIII.2.
The Bible tells you to become as little children.
Little children recognize that they do not understand what they perceive, and so they ask what it means.
Do not make the mistake of believing that you understand what you perceive, for its meaning is lost to you.
Yet the Holy Spirit has saved its meaning for you, and if you will let Him interpret it, He will restore to you what you have thrown away.
Yet while you think you know its meaning, you will see no need to ask it of Him.
レッスン79
「私の問題が解決されるように、私が問題を認識できますように。」
問題がどのような形で現れようと、自分には分離という問題しかないということが認識できたなら、その答えの妥当性がわかるので、それを受け入れることができる。
目の前に立ちはだかるように見えるすべての問題の根底にある一様性を知覚することによって、あなたは自分がその全部を解決する手段をもっていることを理解するだろう。
そしてあなたは問題を認識するので、その手段を使おうとするだろう。
(中略)
私たちは、ただ一つの問題とただ一つの答えがあるだけだと認識するよう努力する。
この認識の中に平安がある。
今日は問題の形態に惑わされてはいけない。
何か困ったことが生じてくるように見えたときには、いつでも速やかに次のように自分に言う。
問題が解決されるように、私がこの問題を認識できますように。
(奇跡講座 中央アート出版より抜粋)
☆今日のこと☆
母は毎週欠かさず祖父の施設や病院へ様子を見に行くが、それは義務であり、早く切り上げて帰りたくて仕方がないものであり、時間がもったいないと思っているようだ。
今夜も祖父母との時間は母にとってはそうしたものであったようで、とても悲しくなった。
誰とであれ、共に過ごす時間は貴重な一瞬一瞬の機会であり、本当にそうしたものを大切にしていきたいと心から思う。
今、新たなことを考える中で、アイデアが出たりはするものの、本当に自分にそんなことができるのかと不安や恐れも押し寄せる。
でも、それは私自身がやることではないから、ただ一点、根幹の強い思いからぶれさえしなければ、あとは整っていくはずだ。
そのためにいっぱいできることはやろうと思う。
レッスン78
「奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。」
出会う人一人ひとりが救いを差し伸べてくれるのを受け入れ、その人の光が私たちの不満の影に隠れてしまうのを拒否するとき、誘惑は崩れ去る。
出会う人、心に思い浮かべる人、過去の記憶から思い出される人、その一人ひとりに救済者の役割が与えられるのを受け入れなさい。
そうすればあなたもその役割をその人と共有できるようになるだろう。
あなたがた二人のために、また、真の視覚をもたないすべての者たちのためにも、次のように祈ろう。
奇跡がすべての不満と入れ替わりますように。
(奇跡講座 中央アート出版より抜粋)
☆
レッスンをやりながら自分の中でテーマとなったことは、ひたすらに「待つこと」。
「奇跡」と入れ替わっても替わらなくても、それがどのタイミングで訪れたとしても、ただ自分の判断を取り下げようとしながら信頼して安心して待つことを繰り返す。
今日は両親と日帰り旅行へ行き、嬉しいこともたくさんあったけれど、自分の中の赦しのレッスンで溢れた日でもあった。
例外なく、目の前に現れてくれた人の手をとりつづける、今生において肉体が終わるその瞬間まで、どんな形でかはわからないけれど、それだけをやり続けることを改めて固く固く誓った。
今日はレッスン77。
「私には奇跡を受け取る資格があります。」
初め、レッスンの言葉が頭に入ってこず、そういえば「奇跡」ってなんだったかなと思って特別解説に立ち返った。
☆奇跡講座ワークブック編(中央アート出版)より抜粋 ☆
特別解説13「奇跡とは何か?」
4.
奇跡ははじめはただ信じることから始まる。
なぜなら、奇跡を求めるということは、心が自ら見ることも理解することもできないものを思い描く用意ができたということを示唆するからである。
それでも、信じることによって、奇跡の土台となるものが本当にそこにあると証しするものがもたらされるだろう。
そうして奇跡は、あなたがそれを信じたことが正しかったと納得させてくれる。
そしてその土台にあるのは、あなたが以前に見ていた世界よりもずっと実在性のある世界だと示してくれるだろう。
それは、あなたがそこにあると思っていたものから贖われている世界である。
5.
奇跡は、餓えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬためにやってくる乾いた埃まみれの世界に、天から降り注ぐ癒しの雨のしずくである。
今や、彼らは水を得た。
今や、世界は緑に包まれる。
あらゆるところに生命のしるしが芽吹き、生命あるものは不滅なので生まれたものが死ぬことはないと教える。
レッスン74
「神の意志のほかに意志はない。」
神の意志のほなに意志はない。
私は今日、神の平安を求める。
(中央アート出版より)
仕事の来客で、刑務所へ何度も入り、20年来の恨みや納得のいかなさを激しく持ち、聞く耳を持たない人と一対一で長時間過ごすこととなった。
会社として提示できる落としどころがないこと、刺青いっぱいで延々と続く怒りと恨みを目の前にして、私の身体はどんどん硬直し、恐れは膨れ上がった。
今日のレッスンだけは忘れず、ひたすらレッスン一点だけに心を合わせつづけたら、あるときから自分の中に果てしないくつろぎが訪れ、ゆらゆらと漂い、安心していた。
奇跡に難しさはなく、神の子に例外はなく、本当の意志は神の意志以外にはないということに気づかざるを得なかった。
私はこうしたことを見ることのためなら(捨てるものはないけれど)何を捨てても惜しくないし、そのためならどんな努力もできる。
そんな力強さを感じた一日。
レッスン65
「私の唯一の機能は、神が私に与えた機能です。」
私の唯一の機能は、神が私に与えた機能です。
私は他のいかなる役目も望みません。
私には他のいかなる機能もありません。
☆今日のこと☆
至ってシンプルなレッスンだ。
何をしていても、問題があっても、迷ったり困ったりしていても、どれほど自分が役立たずに思えても、瞬時にレッスンに戻れば、神が与えた機能以外のものはないと指し示されている。
今日は、怖くて萎縮してしまうけれど、再び会わなければいけない人のことが何度も思い浮かんだ。
お昼休みに歩きながらレッスンをするうちに、その人は何に脅えているのだろうと、ふと隙間ができた。
出会いに偶然はなく、必ず自分の内側の投影だ。
そして、その出会いは必ず手と手を取り合う機会がもたらされるものとなりうるもの。
せっかくのたくさんの機会、どれひとつとして無駄にせず、聖なる瞬間がもたらされるよう開きたい。
レッスン61
「私はこの世界の光です。」
私はこの世界の光です。
それが私のたったひとつの機能です。
そのために私がここにいます。
(中略)
このレッスンはこれから数週間私たちがとることになる数多くのステップの最初の一歩です。
今日はこれらの前進のためのしっかりした土台を築き始めるように努めてください。
☆今日のこと
今日は、これからのレッスンの土台作りのための重要な一歩だということを肝に命じ、一日中忘れないでいられた。
自我の声ではないものへのチューニングの感覚がほんの少しだけ戻ってきた。
それは、小さなことでも予想外をもたらして驚かせてくれる。
そして、もうひとつ驚いたことに、母からの愚痴を、神の子としての唯一の機能だけを忘れずに聞いていたら、彼女の中から深刻さが消えて笑いに変わってしまったようだ。
どの人との間でも、こうしたことをたまに見ると、純粋にただうれしくなる。
今日は、たまたまのこの人生において、人生が終わるその瞬間まで、自分自身の中のゆるしを見続けようと改めて心の中に決意が広がった一日だ。
1. 私には中立的な思いはありません。
2. 私には中立的なものは見えません。
3. 私は私の見るという行為の結果を体験することにおいて一人ではありません。
4. 私は私の思いの結果を体験することにおいて一人ではありません。
5. 私は観ることを決意しています。
ー今日のことー
どうしても開きたい、自分の中の女性性の問題(だと思っている幻想)を見つめたい、どう在ればよいかはわからないけれども一瞬一瞬の生命の息吹きを本当に感じてみたい。
そんな思いと共に、レッスン中の時間がどこか変わった。
復習レッスンはこれまで何度やっても苦手と感じるが、今日は広がったような、気づいたら涙がでていたり、そんな感じだ。
ひたすらにやりきりたい。
1. 私の意味のない思いは、意味のない世界を見せてくれています。
2. 私の心が動揺しているのは、私が意味のない世界を見ているからです。
3. 意味のない世界は怖れを生み出します。
4. 「神」は意味のない世界を創造しませんでした。
5. 私の思いは、私が作り出したイメージです。
ー今日のことー
これほどまでに一瞬一瞬の生命を感じてみたい、心の底から自分の中の女性性と向き合いたいと思えたことはない。
毎瞬を生命のままに、身体もごまかしや頑張りでなく本来の姿のままに、内側から綺麗にしたい。
今は身体も内面から溢れだすものもどちらもまったく自信がなく、自我の好きなままにさせる習慣を選択し続けている。
このきっかけを通して、自我や思考というそこにないものにはもう力を与えないという選択を本当にしていく。
そんな機会が舞い降りてきたって嬉しく思う。
1. 私が見ているものには何の意味もありません。
2. 私が見ているものに、それが私に対して持っている意味のすべてを私は与えています。
3. 私は私が見ているものを何も理解していません。
4. これらの思いには何の意味もありません。
5. 私の心の動揺は、私が考える理由によるものでは決してありません。
ー今日のことー
この上ない孤独、何をしていてもつきまとう不快感、葛藤と執着。
根底にあるのは、「分離」なのだろう。
言葉の上でしか想像がつかないから、あくまで「だろう」だ。
様々な本を読み、答えを持っていそうな人たちに繰り返し尋ね、逆に気を紛らせることもやってはみた。
でも、これに対する答えはやはり得られず、解決策も得られず。
(本も人も可能な限り、最大限出し惜しみなく差し出してくれるけれど、受け取れない。)
それは、今すでにここにあるものだ、つかんだり、理解したり、個人的なものではないということが何度も何度も伝えられる。
とうとう、自分が求めているものは、おそらく奇跡のコースというツールを使ってひたすら問いかけるしかないという降参と(自我による)敗北感にぶち当たった。
自分が奇跡のコースと向き合いたくないと思っていること、意味がないとどこかで思っていること、自分の判断とやり方を優先したいと思っていること、それらを自分の選択として認めることには大きな勇気がいる。
悔しさや怒りや孤独や様々な感情がわきおこる。
認めれば、初めて再びスタートに立つことができ、ずっと楽にもなる。
今日のレッスンと共に、『この宇宙は夢なんだ』は、読みながら(正確には、初めあまりにも頭に入ってこなさすぎて)、そうした問いかけと自分自身で行っている心の選択をどうするか、見つめるきっかけを与えてくれた。
「理解」とは「誰か」に訪れるものでもなく、「誰か」が理解するものではないもののようだ。
実相やそこにあるものは決して言葉にはできないもの、らしい。
それでもノン・デュアリティのスピーカーたちは、表現には限界があるけれど、指し示してくれている。
奇跡のコースでキリストが指し示しているものも同じもの。
漠然とした理解として、なんとなく気づきが起こり始めているようだ。
テキストが表しているものが昨日とはまったく違うものとして見えていて、キリストの壮大な比喩が垣間見えた気がして、思わず微笑みがこぼれた。
(キーワードは「分離」と「それに伴う違和感」)